
個展開催中に撮るとどうしてもライトの具合で、光が入ってしまい映りが悪くて、申し訳ない。しっかりとした黒の線を思い浮かべながら、見て頂きたい。
タイトルは、絵に書き込まれているとおり、「山と星の太陽」。
“星の太陽”というのは、何を意味するのだろうと考えていました。
夜の大空に瞬く星は、光輝く恒星だ。
何万光年の年月をかけて、その光は地球に到達する。
その恒星の光が遥か彼方から降り注ぎ、地球の地にある山々を照らしている。
こういう絵なのだろうか?と思いました。
爆弾みたいに見える絵の中の“星の太陽”は、
宇宙から届くエネルギーを想像させてくれる絵なのかもしれない。
そんなふうに絵を見ていました。
緑の山と思える形は、料理を仕切る“バラン”に見えてしょうがない。
そうでなければ“草”だ。
こういう時、タイトルが書き込まれていると誤解が少なくて助かります。
やはり山だと。
この絵から、なんらかのエネルギーを感じてもらえればと思います。
画材は、色鉛筆。
“星の太陽”を身近なものとして考えると、やはり地球を照らしてくれる太陽ということになる。
武内と地球は滅ぶのか?という話をしていて、
「太陽が滅んだら、地球は終わりでしょ」と、私が言うと非常に驚いた様子で、
「そんなこと考えたことがなかった」と言われました。
それは、彼にとって非常に衝撃的で、近い内に滅ぶかのような気持ちになったようだ。
茫然としている。その様子を見て、
「まだまだ、先のことで私達が死んだ後でも地球はあるって」と、慰める。
太陽は、46億年前に、宇宙空間に漂うガスと塵(星間雲)が集まって誕生した。
それを原始太陽という。
その原始太陽の周りの物質から微惑星が作られ、その微惑星が衝突や合体を繰り返して現在の太陽系になっていったということだ。
今、太陽系にある物質は、すべて太陽がガスや塵だった頃の成分で出来上がっている。
人間の身体も大胆な言い方をすると、太陽系の成分(原子)で出来上がっているということだ。
私達は、太陽の子孫と言ってもいいだろう。
そうやって、長い年月をかけ自然発生的に生まれた人間は、蟻のように集団で生きるという道を選んだ。だが、蟻と違い、心というものがある生き物で、知能もあり、学問をする。
その誕生した人類は、この世にある物質を錬金術(科学)で作り変えたり、新しい物質を作り出す。
そして、文明を築く。
何故、このような精神性というものが人間に備わったのか?
いつも不思議に思います。
物質に見えない世界が与えられている不思議。
物質である肉体に心(感情)が与えられている不思議。
そして、免れない太陽の消滅。
太陽の寿命は、約50億年あるらしいが、その後どうなるのか?
人類は、今とはかけ離れた世界を作っているのか?
太陽系と人類は、密接に繋がっていると思うと同時に、
そこには因果関係すら感じます。
人は、空や雲、嵐や風、様々な自然現象や、自然に癒される。
物質の状態を見ることで、心が動くということです。
太陽系で作られたものに心が動くわけです。
やはり、私達はこの世の物質とどこかで繋がっている。
時々、宇宙の成り立ちの関係の本を読んだりして、私達はどこからきてどこに帰るのか?と思うことがある。
今日の絵を見ながら、そんな宇宙のことが頭に浮かびました。
物理学も随分進んで、宇宙に対してたくさんの仮説が発表されていて、ハッとする。
人類の探求心って、すごい。
ニュートンの重力の発見から、ドンドン物理学は発展し、来るところまできている感があって、いつも感心します。
1月7日は、阪神大震災から31年。
会場では、「津高和一・てんとてん」を開催中でした。
行く前に、ヒロクニさんから、こう言われていた。
「津高先生は、詩人だったからね」と。
また、若い時に行った津高先生の庭の話や、
「たこ壺」という文化人が集まる、明石焼きのお店の話しをしてくれ、
「たこのおいちゃんが、津高先生押しで、連れていかれたんよ」と、
津高先生の庭での個展に行くことになった経緯を言っていました。
武内より、随分先輩だった人なんだ、と思いながら聞く。
抽象画なのですが、線のありようが大自然を感じさせ、
また空や雲を見ているような気がしてくる作品だ。
力強い一本の線。
うねる線。
くるくる動く線。
その微妙な配置や空間に、ポエジーを感じる作品群。
興味のある方は、「津高和一」で検索してみると、どんな絵か見れると思います。
悲しいことに、阪神大震災で津高先生は亡くなったということで、
ギャラリー島田では、追悼展として開催された展覧会でした。
また、阪神大震災の亡くなった方の追悼の献花がありました。
花を生けるのは、花士 珠寶(はなのふ しゅほう)さん。
花を生ける姿が美しく、手や手つきも簡素な美しさを感じさせてくれます。
そんな人が生けた花は、このように。

花を活けるのに刺しているのは、剣山ではなく、藁を利用したもので、
そこに茎をグッと押し込めていました。
室町時代から続くやり方を踏襲しています。
蝋梅の枝を切る時も迷いがなく、パチッという音が澄んでいました。
それに意外と早い。

清々しく、紅白の椿が美しく感じられます。
このように花を生けるのは、その人の精神が現れるのではないだろうか?
何にでも、技や心があるのだと思いました。
今日の太陽系の話し方で言うと、
物質である肉体が、物質である花や木を組み合わせたものを見て、
美しいと感じる心があるのが不思議です。
しかし、美しいと感じる心は確かに存在し、他の人も同じように思うことを見ていて、
心は普遍的な価値観を有していると思い、自分勝手なものでもない。
この部分は、嬉しいことだと思いました。
書きたいことがあって、書いてみたけれど、うまく書けなかったかもしれない。
へたくそ哲学のようで、恥ずかしい。